雑草が茂る更地に、高さ約60センチの石碑がひっそりと建つ。 「想帰郷 我が帰郷日 2045年3月12日」。 その日付は、故郷を追われ、福島県いわき市で暮らす赤井俊治(としはる)さん(68)が国に貸した土地の契約が満了を迎える日だ。 石碑がある福島県大熊町小入野地区は、東京電力福島第1原発事故による福島県内の除染で出た土などを保管する中間貯蔵施設の敷地に入る。 その土などを国が県外の最終処分場に運び出すと約束した日まで残り20年。その頃には88歳になっている。 「自分が生きているのか分からない。本当に住めるような状態で返してくれるのか」。不安と焦燥が募る。 【写真】土に覆われた赤井俊治さんの故郷
変わり果てた愛猫
愛猫が骨と皮だけの姿に変わり果てていた。 11年3月11日の東日本大震災。大熊、双葉両町の沿岸にある第1原発は津波で原子炉の冷却に必要な電源を失い、後に三つの原子炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生した。 国は翌12日朝、半径10キロ圏内に避難指示を出した。3キロ弱の距離に住む赤井さんも着の身着のままで避難した。 原発は絶対に大丈夫という「安全神話」をずっと聞かされてきた。「たいしたことねえ。大丈夫だべ。すぐに帰れる」。家族と車で避難した。 だが、避難指示が長引き、ようやく一時帰宅が許されたのは約3カ月後。赤井さんは残酷な光景を目にした。 長女が小学生の時に拾ってきてからかわいがってきた猫だった。防護服に身を包み、「ごめんな」と心の中で声を掛けるしかなかった。
原発事故後、帰還困難区域に
赤井さんは大熊町の海沿いの集落で6人きょうだいの末っ子として生まれ、町役場や地元の建設会社で働いた。 町出身の典子さん(67)と結婚し、1980年代半ばに実家からほど近い内陸の町の分譲地を購入した。 借金して、妻の実家の山から運んだスギやヒノキを自分で切って、念願のマイホームを建てた。犬や猫を飼い、3人の子どもを育てた。 そんな穏やかな暮らしを原発事故は突然奪った。 世界最悪レベルの事故を起こした原発の建屋からは大量の放射性物質が放出され、避難指示も長期化した。 国の避難指示は東京都23区の2倍に及ぶ最大1150平方キロに出され、約8万人が強制退去を余儀なくされた。 避難区域は放射線量に応じて再編され、赤井さん宅がある小入野地区を含む約337平方キロは特に放射線量の高い帰還困難区域に指定された。 「もう当分戻れない。『避難じゃなくて強制退去だ』と思った」
福島県「苦渋の決断」 納得できない住民
だが、それだけでは終わらなかった。 東日本の広範な地域では、放射線量を下げるため校庭や農地の表土をはぎとる除染作業が始まっていた。 このうち、県内で発生した大量の土を集約し、第1原発に近い地域に一時保管し、30年以内に県外最終処分する計画が浮上した。 国と県や周辺町村による交渉が長く続いた。 「除染を進め、環境回復を図る上で必要な施設。苦渋の決断だが、建設を容認することにした」。当時の佐藤雄平知事が大熊、双葉両町への受け入れを正式に表明したのは14年8月末のことだった。 テレビ画面越しにその発言を聞いても、赤井さんは現実を受け入れられなかった。「住民自身が決断したわけじゃないのに」。 避難先の埼玉県から福島県いわき市のアパートに移り、夫婦とも震災前の会社で仕事を続けてきた。 複雑な思いを抱え国や町の説明会に足を運んだ。「決まったことだから仕方がない」と言う人もいたが、納得はできなかった。
「福島の復興のため」 100坪を貸し出し
国と住民の用地交渉が進んで、15年3月13日に最初の土が運び込まれた。 県内各地の農地や空き地は除染土の仮置き場に使われ、フレコンバッグの山は復興半ばの福島を象徴する光景だった。 「校庭の地下に埋めている除染土を早く搬出してほしい」「除染土の山が消えることが、先に避難指示の解除された地域への住民帰還の促進につながる」。切実な声が県内各地で上がっていた。 多くの地権者が「福島の復興」の大義の下、先祖代々の土地や愛着のある土地を国に提供した。 だが、赤井さんは「まだ話し合える気持ちじゃない」となかなか交渉の席に着けなかった。 「どうしても売れない。俺の帰る場所がなくなる」。悩んだ末に18年、地上権を設定する形で、国に100坪の土地を貸し出した。独断だったが、家族は反対しなかった。 国と交わした文書には「地上権の存続期間は平成57年3月12日までとする」と記された。元号が令和に変わる1年前のことだった。
消えた2700人の暮らし 「家があった目印を」
大熊町と双葉町にまたがる中間貯蔵施設の用地は、東京都渋谷区に匹敵する1600ヘクタールに及んだ。約900世帯、約2700人の暮らしがあった土地だ。 東京ドーム11杯分に及ぶ約1400万立方メートルの土などが県内各地から続々と搬入され、用地のあちこちに「土壌貯蔵施設」が整備された。 海と山に囲まれた集落や田園には高さ15メートル近い広大な土の「丘」が積み上がり、のどかな風景は跡形もなくなった。 赤井さん宅は道路沿いにあり、そうした土を積み上げるエリアからは外れた。ただ、今後どのように土地を利用され、区画整備されるかは分からない。 「どれだけ景色が変わり果てても、ここに家があった目印だけは置かせてほしい」。 環境省に許可を取り、石碑を22年3月に設置し、庭木2本を碑の真横に移植した。 自宅の取り壊しも始まった。家財を処分する際は「土足で上がらないでくれ」と環境省や解体業者に靴にカバーをつけるよう頼んだ。家屋解体の瞬間にはつらくて立ち会えなかった。「(解体後)更地に立ったら本当に言葉が出なかった。『何にもなくなっちゃったな』って」
県外処分は不透明
中間貯蔵施設への搬入は順調に進んだ一方、土を県外に搬出する道筋はくっきりと描かれているわけではない。 国は放射性物質の濃度が一定基準を下回る土を道路の盛り土などに再利用し、最終処分量を減らそうと計画する。 だが、再利用の実証事業は住民らの反発を招いて県内外で頓挫し、現在は福島県飯舘村の旧帰還困難区域以外では実施していない。 最終処分地の選定は、さらに難航することが予想される。環境省は今春までに最終処分に向けた基本方針を発表する予定だが、何年までに何を決めると言った具体的なスケジュールは盛り込まれない見通しだ。 首都圏に電力を供給し続けた福島の原発で事故が起き、その処理過程で発生した大量の土をどこに最終処分するのか。 赤井さんは語気を強める。「ばかにされたような気持ち。本来だったら最終処分の場所も方法も決めてから事業を始めるべきじゃないのか」
「そのまま放置されるかも」 地権者の危惧
45年3月までに県外で最終処分するという約束は「中間貯蔵・環境安全事業株式会社法」という法律に書かれている。 3条2項で「国は(中略)中間貯蔵開始後30年以内に、福島県外で最終処分を完了するために必要な措置を講ずるものとする」と定める。ただ、この規定にはあいまいさが残されている。 昨夏、日本原子力学会の学会誌に「除去土壌中間貯蔵施設の将来計画のあり方」と題した解説記事が掲載された。 環境法に詳しい早稲田大の黒川哲志教授が執筆し、条文の構造は「必要な措置を講じさえすれば国の義務は果たされているという解釈を許容する余地を生む」と指摘。その解釈または国会による法改正によって「施設をそのまま最終処分施設とすることも選択肢とされるかもしれない」との見方を示した。 中間貯蔵施設では、道路などの公有地を除くと大半の土地で契約が完了した。契約済み1303ヘクタールの大半が売却で、地上権設定(45年3月12日まで貸し出し)は246ヘクタールにとどまる。取得用地の8割が既に国有地だ。 「国有地には今の土をそのまま置いておく、なんてことになるのが一番おっかない」。赤井さんが恐れる。 妻の典子さんも「どこも引き取り手が見つからず、それで終わりの可能性もあるのでは」と危惧する。同じような疑念は地権者の間に根強い。
土に覆われた故郷 「行く末を見届ける」
2月10日、赤井さんはいつものように帰還困難区域への立ち入り許可証を携えてバリケードを通過し、自宅跡地に降り立った。 自宅を取り壊しても月1回ペースで立ち入りを続け、雑草を刈ったり、除草剤をまいたりしている。この日は、ツバキの枝葉を丁寧に剪定(せんてい)した。 故郷は土に覆われた。向かいのグラウンドや小学校の校庭には背の高い木が茂り、いつも聞こえていた子どもたちの歓声はない。 津波で流された実家の跡地も親族で協議して国に売った。荒涼とした更地にたたずむ石碑を見つめ、赤井さんは言った。 「俺にはここしかない。俺の名義でやっと手に入った土地なんだから」。 石碑に刻んだ帰郷への願いをかなえるため、最終処分の行く末を見届ける覚悟だ。【尾崎修二】
取材を終えて
「2045年に俺は死んでる。尾崎さん、代わりにちゃんと見届けといてよ」。 赤井俊治さんとは別の、70代のある男性地権者から掛けられた言葉が今も忘れられない。巨大な土の山や自宅跡地を案内してもらった後のことだった。 環境省は数年前から、除染土の最終処分や再生利用の必要性、安全性を発信する「全国民的な理解醸成」事業に力を入れている。用地内や周辺を巡る交通費全額負担の見学ツアー や、著名人を起用した動画制作を展開してきた。 ただ、複数の地権者から「目的や効果がよく分からない」という声を聞く。 最終処分場は一種の「NIMBY(ニンビー)」施設だ。英語の「Not In My Backyard」の頭文字を取った言葉で「必要性は理解するが、私の家の裏庭には置かないで」という感情を指す。 ツアー参加者や動画視聴者の理解を得ても、いざ再利用や最終処分を実行するには、近隣住民らとの丁寧な話し合いや合意形成が必要になる。一方通行のPR的な手法だけではうまくいかないだろう。 環境省は2月12日、最終処分に向けた工程表案を有識者会議に示した。資料では「現地視察は2万人」、「動画29万回超再生」との数値を挙げる一方、最終処分地の決定は30年ごろ以降とし、具体的な時期は盛り込まれなかった。 再利用に反対する声について、赤井さんは「『安全なのに…』と思う。気持ちもわかるが…」と話し、「だからこそ、もっと多くの関係者が知恵を出し合ってほしい」と訴える。 別の地権者も「原発事故でいろんな分断が起きた。最終処分を巡って住民間のいがみ合いが起きるのは望んでいない」と複雑な思いを抱く。 涙を流しながら印鑑を押した地権者の多くが亡くなってからでは遅い。具体的で現実的な議論が一刻も早く進むことを願っている。 ※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
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