働く高齢者は増え続け、2023年には914万人と過去最多を更新。65歳以上の就業率は25.2%で「4人に1人」が就業している計算だ。しかし「人生100年時代」とはいえ、100歳を超えて働き続けるのは、にわかに想像しづらいもの。101歳の今もなお、“生涯現役”を体現し、ラーメン店でその腕を振るう天川ふくさん。その人生について聞くと、ラーメン屋を開いたのは42歳になってからのことだった。 【写真】ラーメン店の「ギャル店長」、ホットパンツ姿が可愛すぎた…!
原則週6日、12時から13時まで店に出ています
都心から車で2時間半、群馬県藤岡市にある中華料理店「銀華亭」。赤いのれんをくぐると、元気に出迎えてくれるのは天川ふくさんだ。御年101歳。 「原則週6日、12時から13時まで店に出ていますよ」(ふくさん) ふくさんを支えるのは、娘の武者久美子さんと息子の天川俊二さん、そして長年一緒に働くパート女性の3人だ。忙しいランチタイム、阿吽の呼吸で次々に注文をさばいていく。 午前11時半の開店直前、ふくさんは白いエプロンをキュッと締め、背筋をピンと伸ばし、しっかりとした足取りで厨房に現れる。すぐさま製麺所から届いた麺を手際よく取り分けて、ラーメン鉢に湯を入れて温める。 開店と同時に、客足は途絶えることはない。ふくさんは手際よく野菜を切り、絶妙なタイミングで麺の湯切りをする。ほうれん草、なると、メンマ、ネギ、チャーシュー……ラーメン鉢に並べる手さばきは軽やかで、動きに一切のムダがない。 会計も担当することがあり、使い込まれたそろばんをパチパチと弾いて、瞬く間に客に料金を告げる。 隙間時間にはスクワットをしたり、かかとを上げてつま先立ちになったり、アキレス腱を伸ばしたり。勤務中はくるくると厨房を動き、座って一息つく時間よりも動いている時間のほうが圧倒的に長い。 実はつい数年前、90代後半になるまで中華鍋もふるってチャーハンも作っていたというから驚きだ。さすがにチャーハンや炒め物は息子の俊二さんらにバトンタッチしたというが、仕上がったラーメンはふくさん自らテーブルに運ぶ。
ふくさんに会いに全世界から客が集まる
高崎市から訪れた70代の男性客は語る。 「昨夜、テレビにふくさんが出ているのを見て、今日さっそく妻と来ました。醤油ラーメンを頼んだけれど、あっさり味で美味しいね。どこか懐かしさもあって」 会計を終えた男性が握手を求めると、ふくさんは笑顔で応じていた。照れ笑いしながら、ふくさんは語る。 「この店を始めて、気がついたら60年。私も100歳を超えてテレビや雑誌に追いかけ回されるようになっちゃって(笑)。人生って過ぎてみないとわからないものね」(ふくさん、以下「」も) ふくさんが暮らす鬼石(おにし)地域(旧鬼石町)は、高齢化と人口減少が深刻な課題となっている。2006年に藤岡市と合併した際には7000人程度だった人口は、いまや4600人ほどに減った。10年後には3000人台になると見込まれている。 「商店街はシャッター通りで、かろうじて飲食店が何軒か残っているだけ。学校も生徒がめっきり減りましたね」 そんな中でも今や銀華亭には常連客だけでなく、テレビや雑誌、YouTubeやTikTokなどを見て、ふくさんに会いに来る人が大勢いるという。 「最近では海外からも来店があり、ドイツ、スウェーデン、台湾、タイなどから訪れる人もいるんですよ」(息子で店主の俊二さん) 以前、来店したドイツ人カップルはSNSでふくさんのことを知り、来日するとその足で成田空港から銀華亭に直行してきた。また、日本在住のモンゴル人客からは母国でふくさんが“バズっている”ことを聞いたという。 101歳でもバリバリと働くその姿に勇気づけられる客は多い。そして健康と長寿にあやかりたい、と全世界からファンが訪れるのだ。 しかし、いい時ばかりではなかった。101年の歩みは「山あり谷あり」と話し、ふくさんは笑う。
結婚しようにも男がいない
「若い頃は映画が大好きで、東京までひとりで観に行くような娘でした」(ふくさん、以下「」も) 淀みない口調で、ふくさんは語る。 大正12(1923)年、関東大震災が起きたこの年、ふくさんは群馬県で生まれた。 昭和14(1939)年に女学校を卒業するが、その2年前に日中戦争が始まり、若い男性は次々と出征していた。 「私が結婚したのは20歳を超えてからだったので、息子から『昔の人はみんな早くに結婚するんじゃないの』と聞かれたことがあります。あの時代、男はみんな兵隊に行っちゃいましたからね。昔は女の人は学校を卒業したら、お茶やお花を習って、良縁を待つのが一般的だったけど、結婚しようにも戦争で相手がいない(笑)。 家でぶらぶらしても仕方ないので、母の紹介で地元のバス会社に就職したんです。でも私は、そろばんもできないし、社長さんからは『偉いもんが来ちゃった』思われたらしい」 そう言って茶目っ気たっぷりの笑顔を向けた。 「戦中、戦後は大変な時代だった。うちは両親が農家の出だったから、食べ物に極端に困ったことはなかったんだけど、周りには食うや食わずの家庭もたくさんいた。そういう人たちにおうどんや野菜なんかを差し入れたりして、みんなで助け合って生きていましたね」
映画館から町中華へ――大胆なビジネスモデル転換
やがて、ふくさんが22歳のときに終戦。昭和24年(1949年)にお見合いで夫・孝さんと結婚。26歳のときだ。 「主人の実家は映画館。主人ではなく映画に惚れて嫁いできたんですよ(笑)」 当時、この街には映画館は1軒しかなく、家業の「銀映座」は街の文化の中心となった。 「映画が全盛期の頃は、とにかく繁盛しましたよ。そのおかげで、子どもたちを東京の大学に通わせることができました」 1950年代、日本の映画産業は興隆を極めたが、その後、テレビの急速な普及や娯楽の多様化により衰退。銀映座も時代の変化の波には抗えなかった。 「そこで主人が『ラーメン屋をしよう』と言い出してね。でも結局は、私が高崎にラーメンを習いに行ったのよ。私は食べるのは好きだけど作るのは大嫌いだったのに(笑)。近所のおばさんからも『よくやる気になったわね』と言われましたけどね。背に腹は代えられない」 当時、ふくさんは42歳。まさに「四十からの手習い」だ。 「店名は、映画館が『銀映座』だったから、中華の”華”を一文字とって『銀華亭』にしたの。単純でしょう(笑)。でもこんなに長く続くとは思わなかったわ」 すぐに近くの役場や商店で働く人が常連客となり、昼は定食、夜は酒のつまみを求め、深夜まで賑わったという。 「お店をやっているとはいえ、私はよく旅行に行ったりしましたよ。うちの主人はいい人でね、私もおとなしく言うこと聞く性格じゃないのを知っていたんでしょうね(笑)。いつも『行ってらっしゃい』と快く送り出してくれたもんです」 心やさしき夫も2003年に他界。一時は閉店を考えたものの、長女の武者久美子さん、長男の俊二さんの支えもあり、店を続けていくこととなった。それから20年以上経つ今もラーメンを作り続けるふくさんが明かす“生きるヒント”とは。 つづく後編記事『週6回ラーメン店で腕を振るう「101歳のふくさん」が明かす…健康のためにしている「意外なこと」』では、その元気の秘訣について聞きました。 (取材・文/アケミン 撮影/週刊現代編集部)
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