20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー客員教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。 第5回は、急速な市場拡大が見込まれる半導体産業に着目、実力重視の米国に活路を見出し、半導体部品を中核事業に育て上げた稲盛氏の挑戦の日々を振り返る。 ■ 京セラの事業構造の変革 1967年1月16日の第1回経営方針発表を通じて、創業8年目にして中堅企業への道を歩み始めた京セラ。稲盛和夫は幹部社員の意識変革を促すとともに、社内体制を整備することに努めた。驚くべきは、その後わずか数年で将来にわたる中核事業をつくりあげ、中堅企業はおろか大企業への道を確かなものとしたことである。 稲盛は、急速な市場拡大が見込まれる新規事業分野に、ヒト、モノ、カネの経営資源を集中投下し、圧倒的な市場ポジションを獲得した事業を軸に、安定して伸びゆく企業の基本形をつくりあげていった。京セラの事業構造の変革期に当たり、稲盛の取り組みを振り返ってみたい。 京セラは、ファインセラミック業界では最後発に当たる。国内では、日本ガイシ、日本特殊陶業、鳴海製陶など、先行する歴史ある企業が存在した。また、米国にもアメリカンラバー、クアーズテックなど有力なセラミックメーカーがあった。 やむなく京セラは狭間を縫うようにして、競合他社たちが断った、製造が困難で採算性が悪い製品を受注し、涙ぐましい努力を重ねることで顧客を開拓していった。結果、電子工業から機械・化学工業などさまざまな分野に展開し、製品ラインアップは多彩に広がった。 しかし、試作など特殊用途に使われる製品が多く、高い収益性は確保していたものの、少量生産を強いられ、継続して受注が望めるものは少なかった。また、特定分野を深掘りした技術的蓄積を図ることも難しかった。いわば、業態は中小下請企業の域を出るものではなかった。 独自技術に立脚し、市場を先取りして事業を拡大していく、そのような中堅企業としての道を歩むことを決意していた稲盛は、京セラの企業ステージを上げるために有望な市場を見出していた。半導体である。
■ 米国の半導体産業にとって、京セラはいかに不可欠となったか 1947年の米国ベル研究所のトランジスタの発明を受け、1957年にフェアチャイルドが設立され、半導体産業が産声を上げた。その後、この分野の先駆者である同社の創業メンバーたちが次々に独立を果たし、インテル、アドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)など現在の米半導体産業を代表する企業が設立され、それら新興企業が位置したカリフォルニア州シリコンバレーに半導体産業が花開いていた。 京セラは創業3年目に当たる1961年から、当時トランジスタを量産していたフェアチャイルドと、ヘッダーと呼ばれる絶縁製品で、商社経由で取引があった。また稲盛は、1962年には早くも米国に出張し、自社主導の海外展開の先鞭もつけていた。従業員100名、売上1億円ほどの中小企業に過ぎなかったが、知名度ではなく実力を認めてくれる米国市場に活路を求めたのであった。 京セラは1969年、フェアチャイルドから全く新しいコンセプトのセラミック多層パッケージの開発を受注した。25ミリ角、厚さ0.6ミリのセラミック基板に高精細な配線層を形成し、これを2層重ねて92個のホールを通じて電気的に接続するというもので、従来のICパッケージの概念を一新するものであった。 いくら高度な半導体を作っても、それを保護し、電気的に接続するパッケージがなければ機能しない。稲盛は、集積化が進む半導体にとって、この新しいコンセプトに基づく多層ICパッケージは不可欠になると確信し、3カ月という短期での試作依頼を受け、開発チームを組織し、昼夜兼行、開発に努めた。 結果、数々の試行錯誤と技術的ブレークスルーを経て、何とか約束通りに試作品を完成させることができた。 残念ながら、この製品はフェアチャイルドの方針変更により量産には至らなかったが、京セラにセラミック多層ICパッケージに関する技術的蓄積ができたとともに、フェアチャイルドのトップをはじめ技術者、購買担当者に至るまで、彼らからの信頼をさらに揺るぎないものにした。 絆の基盤は、圧倒的な顧客第一主義にあった。京セラの米現地営業は、稲盛が「サーバントたれ」と教えた通り、献身的なカスタマーサービスに努めた。例えば、フェアチャイルド技術者からの夕刻の問い合わせを、現地営業が深夜までかかって整理し、日本の海外営業部門に連絡する。 時差のため、ちょうど朝を迎えていた京セラの営業は、すぐさま製造と調整し、ときに重要な案件は稲盛に連絡を取り、結果を米国に回答した。すると、米現地営業は問い合わせから一夜明けた朝一番に、フェアチャイルドに打ち返しすることができた。日本の競合会社はおろか米国のコンペティターのいずれよりも迅速かつ誠実に、顧客の要望に応えていったのである。 このような京セラの企業姿勢、京セラ従業員の働く姿勢を理解していたフェアチャイルドの技術者たちが、フェアチャイルドから独立をした後も、京セラへの絶対的な信頼感を基に、セラミックICパッケージを京セラに発注し続けてくれたのである。シリコンバレーの米国半導体産業にとって、京セラは欠くことができないパートナーとして存在していた。
■ 半導体パッケージの開発と量産体制の整備 京セラの半導体分野でのポジションをさらに揺るぎないものにした製品がある。 1969年8月、米国のAMIセミコンダクター(AMI)から電卓に使うセラミック多層ICパッケージ100万個の発注を受けた。総額は8億円、創業以来最大の受注額であり、当時年商20億円に過ぎなかった京セラが、一気に成長発展を期すことができる商談であった。 米国現地法人社長から受注打診の国際電話が、めったにない休暇を取り、家族一同で福井県に海水浴に行っていた稲盛の下に入った。国際電話がいまだ珍しく、大騒動になった旅館の電話を取った稲盛は、技術的に困難が予想され、多大な設備投資を必要とするにもかかわらず、間髪を入れず受注を了承した。 天の配剤か、実はその頃、京セラは鹿児島県知事からの度重なる要請を受け、鹿児島県川内市(現薩摩川内市)に、広大な工場用地を取得していた。また単層のセラミックICパッケージの生産をすでに新工場で開始していた。稲盛は早速、AMI向け多層製品の量産ラインの準備に着手した。 しかし、セラミック多層ICパッケージの量産技術は、いまだ確立されていなかった。当時京セラが生産していた、他のセラミック製品と比べ、セラミック多層ICパッケージは、はるかに高度で複雑な製造技術を必要とし、工程が長かった。一つの工程の難問をクリアしても、次の工程で行き詰まるなど、ハードルは果てしなく続いた。 セラミック多層ICパッケージの技術自体が、高度かつ多様な技術の集合体であり、発生する課題も複合的な要因から成り立っていた。一つの要因をつぶしても、全体の解決にならず、眼前の現象に取り組みながら、全工程を俯瞰した統合的問題解決を必要とした。 当時稲盛は、毎週のように京都から夜行列車で鹿児島川内に足を運んだ。工場に着くやいなやすぐに現場に向かい、社員とともに課題解決に当たった。 しかし、歩留まりはゼロ。良品が全く取れない時期が、1969年のみならず翌1970年も続いた。その頃、鹿児島市内の実家を訪れるたび、「今月も何千万円の赤字だ」とつぶやく稲盛の姿を見て、両親は心の底から心配したという。 AMIからの矢のような催促に脅かされながら、毎月、膨大な損失を計上し続けた。現場のリーダーは耐えきれず、次々に交代した。しかし、後任者は前任者に勝る努力を重ね、挑戦は続けられた。その頃、疲弊した現場に立った稲盛はいつも、皆を励ますように「セラミック多層ICパッケージで世界を制覇しよう。世界一のセラミックICパッケージメーカーになろう」と鼓舞し続けたという。 想像を絶する努力が実り、1970年12月頃にはようやく歩留まりが改善し、採算が取れるようになってきた。
■ 最初で最後、巨額の設備投資を先行 稲盛は、セラミック多層ICパッケージの量産技術にめどをつけるとともに、多額の設備投資を行った。テープ成形機、パンチングマシン、プリンター、大型還元雰囲気炉、ブレージング炉、自動メッキ装置など、高度で高価な製造設備を競合会社に先駆けて次々に導入していった。 元来、稲盛は慎重な経営姿勢を取り、特に設備投資は先行投資を否定し、受注を得てからの「泥縄式」設備投資を推奨、実践していた。それが一転、巨額の設備投資を先行で行った。これは、稲盛の長い経営史において、最初で最後であろう。 1970年から1971年にわたり、京セラの設備投資額の半分に当たる7億円を、川内工場の多層セラミックICパッケージの量産ラインに投じている。稲盛には、半導体産業の未来への確かな確信があり、その中で京セラがトップを走るという揺るぎない信念があったのである。 しかし、稲盛らしいのは、半導体分野への集中投資を行う一方、全社では「ケチ作戦」と呼ぶ徹底した経費削減策を展開していることである。つまり、組織文化としての健全な経費感覚を維持しながら、経営戦略として半導体分野への挑戦的な集中投資を行っているのである。 1971年の経営方針発表で、稲盛は半導体部品事業について、次のように述べている。「屍(しかばね)を乗り越えていくような苦労を重ねて、やっと軌道に乗りました。現在の生産規模ですと、おそらく世界ナンバー1だと思います」。 京セラは最後発のセラミックメーカーながら、伸びゆく半導体市場で先行する日米の巨大コンペティター企業を凌駕(りょうが)したのである。 その後、さまざまな技術的、経済的変動があったにもかかわらず、半世紀以上にわたり、京セラはこの分野で圧倒的なポジションを維持し続けている。また、この半導体部品部門の確立により、京セラは中小企業から中堅企業に留まらず、大企業へと成長発展を続けていくことになる。 売上2兆円を超えた現在の京セラにおいても、この半導体部品を中心とするコアコンポーネント事業は売上5700億円、利益570億円を誇り、中核事業として京セラの屋台骨を支え続けている。
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